面打ちと竹刀の関係と切り落とし
竹刀も時の経過の中で流行があると感じている。
私の個人的見解ですが、最近は握りが太くて柄の長さが短めそんな感じの竹刀が多いように思う。
竹刀はその人の体格や得意技によって変わると思っている。
学生時代の私は勝負が何より優先だから、少々横から打っても、体勢が崩れていても当てることが重要と感じ剣先軽く柄は長めという竹刀を好んで使っていた。
歳を重ねて感じる剣道の方向性というか、醍醐味が七段になってから変わった気がしている。
試合は審判員によって勝敗が付けられるが、地稽古のやり取りの中でこの人には優勢だったと何を持って感じるのか?
稽古は二人で行う、もちろん審判がいない、その状況の中では当たり前だが自分有利の判定になるのが当たり前。
私は稽古をしているときは常に真剣で行い、それが途切れたら稽古を止める。
だから一時間が限界、いや三十分かもしれない。
いい加減に稽古するくらいなら、しない方がましというのが私の持論です。
どうしても一時間元立ちのときに三十分で疲れてしまったら、掛かって頂ける人には初太刀だけ全力で打ち、あとは気持ちだけ崩さずに攻め入ることにしている。
だから相手には打たれ放題になりますね。
それで良いと思っています。
稽古は疲れるまで全力!
そんな打たれているときにふと感じたのです。
面打ちは面を打つんだけど、多くの人が面を打つのに面を狙って打ってない?
なに馬鹿なこと言っているのかと思うかもしれませんが、実際はお互いに面を打ち合ったとき狙っているのは面ではなく相手の竹刀なのです。
試合はもちろんのこと、互角稽古でも相手に面を打つ動作を起こしたとき、無反応でいる人なんていません。
お互いに攻めあい、自分ではここで面を打ちたいと攻め入ろうとしたとき相手がほんの少し早く先を掛けて面を打ってきた、その時は返し応じなど考えていなければやはり面を打ちに行くと思います。
内心では、しまった!と思ってもただ避けるのではかっこが悪いと思うのではないでしょうか?
だから面を打つふりをして避けるのです。
面打ちに対して、面打ちで避ける。
これなら見ている人にも、相手にも五分に感じるのでは?と思うし、まれに遅れたことがかえって切り落としのように決まることもあるのです。
剣道では面切り落とし面が究極の技と聞いたことがあります。
でも、それは相手が予期せぬときに来た竹刀に自分の竹刀をぶつけたら相手の竹刀がはじかれ、面に当たった結果オーライであり、切り落としとは次元が違うと思うのです。
私が勝手に思う切り落とし理論。
相手の技を待つのではなく、自分から攻め入って相手を追い込み、心を崩し、勝ったと感じたとき、自分から先を掛けて打ち出す。
その動作に相手は遅れまいと面を打つ。
私の動き出しが先だけど、追い込まれている相手は手先でなるべく早く打とうとするから竹刀は早く動いてくる、でもそれは速いだけで心も重さ(重心)も乗っていないので竹刀の重さでしかなく、逆に竹刀の重さに踊らされてしまい、竹刀の先の方向に動かされてしまう。
出鼻面のような竹刀の先が直線的に来る速い技は、物理の法則では速ければ軽くなるのです。
そうは言っても鍛えている力の強い人には?
そこなんですよね、自分力を使わず相手の力を利用する。
私は攻めて勝ったと思ったらゆるりと間に入ると相手は打ってくると感じ竹刀を前に出して振りかぶろうとする、そこのときほんの僅か相手の竹刀を少し方向を変えるように触れる。
それだけで相手は真っ直ぐ振れなくなり、気持ちが焦る。
そうすれば相手はそのことを取り戻そうと振り上げるときに無駄な力を竹刀に入れる。
本来竹刀に入れる力の頂点は面に当たる瞬間なのに、その前で力のマックスに達してしまう。
頂点で入れた力は一気に力が抜けてしまう。
それはもう心の入っていないただの竹刀、正しく真っ直ぐ心と重心を乗せた竹刀に触れただけではじいてしまうのです。
その姿が相手にも他人にも切り落としのように見え感じると思います。
切り落としは剣先の部分で触れるだけ、これが切り落としだと思っています。
切り落とすのは竹刀ではなく、相手の心。
これが先先の後ではないかと思うのです。
剣道は年齢を重ねても力が弱くても出来るという由縁ではないでしょうか。
切り落としを形ばかりに捕らわれてしまうとちょっと厄介な技になってしまうと思うのです。
先を掛けて打つ方も心が決まっていないと、おっかなびっくりの気持ちや、相手が後から打ってくると予測をするからやはり右腕に力が入り、剣道形四本目のようなまだ面に行き着いていないところで竹刀が当たってしまう。
それを繰り返していくとほとんどの人が考える。
じゃ、じゃ、じゃ、その切り結ぶ所で相手の竹刀がはじかれたら後はそのまま面に当たる!
ピンポーン!正解です!
それなら打ち負けないように重い竹刀を使えば良いのではないか?
ピンポーン!正解です!
重い竹刀は重い(当たり前)
そっか、体感で軽く感じられるなら柄の握りを太くすれば軽く感じられる。
ピンポーン!正解です!
すべては正解でもこれは打ち負けない剣道なのです。
求めているのは相手の面にどうしたら自分の竹刀が乗っかるかだということが、竹刀同志に打ち負けないに変わってしまっていると感じるのです。
仕事をしてから打つ。
打つ前にやるべきことをするにはなんか細工をするのですよね。
つづく
仕事って何?
そう思いますよね。
私の独自な考えとして仕事(打つまでにやるべきこと)って日頃から信じている師匠や先輩から言われている注意点を思い返し確認する。
私がいつも考えていること
背中を伸ばす
肩の力を抜く
竹刀の先に心を込める
何があっても残心をとる
面の当たる場所をしっかり見る
他にもっとありますがそのような事を確認して実行してから技を出します。
書き出すとなんかすごく時間がかかりそうなんて思うかもしれませんが、私は3秒もあれば10項目以上のチェックをしています。
今の私はそれをせず稽古で当たった、外れたなど結果だけにとらえるようなゲーム的では楽しくありません。
打った技がなぜ当たらなかったか?を考えるのが面白いです。
当たって良かったのではなく、勝って打ったと思って打った技が外れたことに不思議を感じるのです。
10本打って1本当たれば嬉しい。
よりも
10打ってなぜ1本外れたか?
私は無駄な労力は使いたくないので、打つ技に権田という名前を書いて打っています。
だから外れたらそれはその全て自分が未熟だからと考えています。
なにも考えずに打った技が当たったらうれしいなんて思いませんね。
まぐれ当たりは、まぐれ当たりですからね。
もっと言ってしまえば相手の面に当たらなくても良いんです(首を曲げる人や、とっさにしゃがんでしまう人などいますから)、それでもしっかり残心までとれていたかが重要と思っています。
でも、そこにとらわれ過ぎると相手の動き、攻めに反応できない、だから気を込めて真剣に攻める気合いは出し続ける。
攻めながらも、瞬時の技に反応するにはいかに柔らかい心、順応性のある手の内。
手の中で竹刀が自由に遊んでいないとそれが出来ないように感じています。
強く握っていれば手首も硬くなり、伸びがなくなります。
手首が柔らかく動くから体の自由心もぶれないと思っています。
手の内で持っていない感覚の竹刀。
私の考えている手の内の力のポイント
右手は中指と薬指に少し握った感じにします。
人差し指と小指には全く力を入れません。
左手は薬指と小指に意識を置きます。
例えば面打ちなら、その構えの手の内の力関係から攻めて打つ、そして当たる瞬間は両手とも薬指、小指誰に力を入れ、打つというより竹刀を握るまたは面を捕まえるというイメージです。
だから私は手の平が誰よりも大きいのですが、竹刀の握りは時中学生の竹刀位細いのです。
私の竹刀を持ってほとんどの人は竹刀の細さに驚きますね。
そして軽いのです。
どの位軽いかって38の女子用の竹刀です。
これで大人の500グラム以上ある竹刀と合い面を打ちあってもはじかれることはありませんね。
私は竹刀で何をしたいか、何を表したいのか、と思いだから竹刀の重さに頼らず、竹刀が、剣先が思い意のまま動いてほしいと思っているのです。
これは私の考えですので全ての人には合いませんというより、私的な方がごくわずかしかいないと思います。
でも、竹刀が手の中で遊ぶと思う感覚がわかると少し剣道も変わると思います。
変な言い方ですが、手の中で竹刀が遊ぶから常に自分の弦の位置を気にしています。
そうするとおのずと相手の竹刀の弦の位置も見えてしまいます。
大体三割くらいの人の弦が真上ではなく少し斜めになっていますね。
私にはそれが気になりますね。
しっかり強く打ちたいなら、竹刀の弦が真上にあってほしいと願っていますね。
私の個人的見解ですが、最近は握りが太くて柄の長さが短めそんな感じの竹刀が多いように思う。
竹刀はその人の体格や得意技によって変わると思っている。
学生時代の私は勝負が何より優先だから、少々横から打っても、体勢が崩れていても当てることが重要と感じ剣先軽く柄は長めという竹刀を好んで使っていた。
歳を重ねて感じる剣道の方向性というか、醍醐味が七段になってから変わった気がしている。
試合は審判員によって勝敗が付けられるが、地稽古のやり取りの中でこの人には優勢だったと何を持って感じるのか?
稽古は二人で行う、もちろん審判がいない、その状況の中では当たり前だが自分有利の判定になるのが当たり前。
私は稽古をしているときは常に真剣で行い、それが途切れたら稽古を止める。
だから一時間が限界、いや三十分かもしれない。
いい加減に稽古するくらいなら、しない方がましというのが私の持論です。
どうしても一時間元立ちのときに三十分で疲れてしまったら、掛かって頂ける人には初太刀だけ全力で打ち、あとは気持ちだけ崩さずに攻め入ることにしている。
だから相手には打たれ放題になりますね。
それで良いと思っています。
稽古は疲れるまで全力!
そんな打たれているときにふと感じたのです。
面打ちは面を打つんだけど、多くの人が面を打つのに面を狙って打ってない?
なに馬鹿なこと言っているのかと思うかもしれませんが、実際はお互いに面を打ち合ったとき狙っているのは面ではなく相手の竹刀なのです。
試合はもちろんのこと、互角稽古でも相手に面を打つ動作を起こしたとき、無反応でいる人なんていません。
お互いに攻めあい、自分ではここで面を打ちたいと攻め入ろうとしたとき相手がほんの少し早く先を掛けて面を打ってきた、その時は返し応じなど考えていなければやはり面を打ちに行くと思います。
内心では、しまった!と思ってもただ避けるのではかっこが悪いと思うのではないでしょうか?
だから面を打つふりをして避けるのです。
面打ちに対して、面打ちで避ける。
これなら見ている人にも、相手にも五分に感じるのでは?と思うし、まれに遅れたことがかえって切り落としのように決まることもあるのです。
剣道では面切り落とし面が究極の技と聞いたことがあります。
でも、それは相手が予期せぬときに来た竹刀に自分の竹刀をぶつけたら相手の竹刀がはじかれ、面に当たった結果オーライであり、切り落としとは次元が違うと思うのです。
私が勝手に思う切り落とし理論。
相手の技を待つのではなく、自分から攻め入って相手を追い込み、心を崩し、勝ったと感じたとき、自分から先を掛けて打ち出す。
その動作に相手は遅れまいと面を打つ。
私の動き出しが先だけど、追い込まれている相手は手先でなるべく早く打とうとするから竹刀は早く動いてくる、でもそれは速いだけで心も重さ(重心)も乗っていないので竹刀の重さでしかなく、逆に竹刀の重さに踊らされてしまい、竹刀の先の方向に動かされてしまう。
出鼻面のような竹刀の先が直線的に来る速い技は、物理の法則では速ければ軽くなるのです。
そうは言っても鍛えている力の強い人には?
そこなんですよね、自分力を使わず相手の力を利用する。
私は攻めて勝ったと思ったらゆるりと間に入ると相手は打ってくると感じ竹刀を前に出して振りかぶろうとする、そこのときほんの僅か相手の竹刀を少し方向を変えるように触れる。
それだけで相手は真っ直ぐ振れなくなり、気持ちが焦る。
そうすれば相手はそのことを取り戻そうと振り上げるときに無駄な力を竹刀に入れる。
本来竹刀に入れる力の頂点は面に当たる瞬間なのに、その前で力のマックスに達してしまう。
頂点で入れた力は一気に力が抜けてしまう。
それはもう心の入っていないただの竹刀、正しく真っ直ぐ心と重心を乗せた竹刀に触れただけではじいてしまうのです。
その姿が相手にも他人にも切り落としのように見え感じると思います。
切り落としは剣先の部分で触れるだけ、これが切り落としだと思っています。
切り落とすのは竹刀ではなく、相手の心。
これが先先の後ではないかと思うのです。
剣道は年齢を重ねても力が弱くても出来るという由縁ではないでしょうか。
切り落としを形ばかりに捕らわれてしまうとちょっと厄介な技になってしまうと思うのです。
先を掛けて打つ方も心が決まっていないと、おっかなびっくりの気持ちや、相手が後から打ってくると予測をするからやはり右腕に力が入り、剣道形四本目のようなまだ面に行き着いていないところで竹刀が当たってしまう。
それを繰り返していくとほとんどの人が考える。
じゃ、じゃ、じゃ、その切り結ぶ所で相手の竹刀がはじかれたら後はそのまま面に当たる!
ピンポーン!正解です!
それなら打ち負けないように重い竹刀を使えば良いのではないか?
ピンポーン!正解です!
重い竹刀は重い(当たり前)
そっか、体感で軽く感じられるなら柄の握りを太くすれば軽く感じられる。
ピンポーン!正解です!
すべては正解でもこれは打ち負けない剣道なのです。
求めているのは相手の面にどうしたら自分の竹刀が乗っかるかだということが、竹刀同志に打ち負けないに変わってしまっていると感じるのです。
仕事をしてから打つ。
打つ前にやるべきことをするにはなんか細工をするのですよね。
つづく
仕事って何?
そう思いますよね。
私の独自な考えとして仕事(打つまでにやるべきこと)って日頃から信じている師匠や先輩から言われている注意点を思い返し確認する。
私がいつも考えていること
背中を伸ばす
肩の力を抜く
竹刀の先に心を込める
何があっても残心をとる
面の当たる場所をしっかり見る
他にもっとありますがそのような事を確認して実行してから技を出します。
書き出すとなんかすごく時間がかかりそうなんて思うかもしれませんが、私は3秒もあれば10項目以上のチェックをしています。
今の私はそれをせず稽古で当たった、外れたなど結果だけにとらえるようなゲーム的では楽しくありません。
打った技がなぜ当たらなかったか?を考えるのが面白いです。
当たって良かったのではなく、勝って打ったと思って打った技が外れたことに不思議を感じるのです。
10本打って1本当たれば嬉しい。
よりも
10打ってなぜ1本外れたか?
私は無駄な労力は使いたくないので、打つ技に権田という名前を書いて打っています。
だから外れたらそれはその全て自分が未熟だからと考えています。
なにも考えずに打った技が当たったらうれしいなんて思いませんね。
まぐれ当たりは、まぐれ当たりですからね。
もっと言ってしまえば相手の面に当たらなくても良いんです(首を曲げる人や、とっさにしゃがんでしまう人などいますから)、それでもしっかり残心までとれていたかが重要と思っています。
でも、そこにとらわれ過ぎると相手の動き、攻めに反応できない、だから気を込めて真剣に攻める気合いは出し続ける。
攻めながらも、瞬時の技に反応するにはいかに柔らかい心、順応性のある手の内。
手の中で竹刀が自由に遊んでいないとそれが出来ないように感じています。
強く握っていれば手首も硬くなり、伸びがなくなります。
手首が柔らかく動くから体の自由心もぶれないと思っています。
手の内で持っていない感覚の竹刀。
私の考えている手の内の力のポイント
右手は中指と薬指に少し握った感じにします。
人差し指と小指には全く力を入れません。
左手は薬指と小指に意識を置きます。
例えば面打ちなら、その構えの手の内の力関係から攻めて打つ、そして当たる瞬間は両手とも薬指、小指誰に力を入れ、打つというより竹刀を握るまたは面を捕まえるというイメージです。
だから私は手の平が誰よりも大きいのですが、竹刀の握りは時中学生の竹刀位細いのです。
私の竹刀を持ってほとんどの人は竹刀の細さに驚きますね。
そして軽いのです。
どの位軽いかって38の女子用の竹刀です。
これで大人の500グラム以上ある竹刀と合い面を打ちあってもはじかれることはありませんね。
私は竹刀で何をしたいか、何を表したいのか、と思いだから竹刀の重さに頼らず、竹刀が、剣先が思い意のまま動いてほしいと思っているのです。
これは私の考えですので全ての人には合いませんというより、私的な方がごくわずかしかいないと思います。
でも、竹刀が手の中で遊ぶと思う感覚がわかると少し剣道も変わると思います。
変な言い方ですが、手の中で竹刀が遊ぶから常に自分の弦の位置を気にしています。
そうするとおのずと相手の竹刀の弦の位置も見えてしまいます。
大体三割くらいの人の弦が真上ではなく少し斜めになっていますね。
私にはそれが気になりますね。
しっかり強く打ちたいなら、竹刀の弦が真上にあってほしいと願っていますね。
2016-01-23 21:26
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