日本語と剣道 [剣道]
日本語というものは本当に不思議だと思う時があるし、落語を聞いているとそれがとても良く感じることもあるし、剣道理論も七段になってやっと半分位理解できるようになったのかもしれないと感じることがある。
日本語の解釈で外国の方が戸惑うのはある家に招かれご飯をごちそうになりそこの奥さんが『ご飯お代りいいですか?』と言うので『いいです』と言ったら、お代りをくれなかったと言う事を聞いた時、一瞬なにも不思議ではないけど外国人の人には「いいか?」と聞いているのだから欲しいのはYesだと思ってその言葉通り「いいです」と答えたのだと言う。
ここの最初はどうですかと聞いている「いい」で、答えの「いい」は結構ですと日本人は解釈してしまう。
日本人同士ならこんな説明はしなくても自然と理解している。
剣道もこの言葉のように主語と言うか明確なポイントをはっきり言わないので戸惑うこともある。
私も最近になって感じたことは、面打ちは『思い切って遠い間から捨てて打ちなさい』と言う言葉の意味。
剣道やっている人ならほとんどこの言葉を聞いたこともあるだろうし、子供たちを指導している人なら注意として言ったこともあると思う。
本当にそうだかどうかわからないけど私は今迄の教えてもらったことをただ覚えると言うより、自分らしく理解して頭で考え体で覚えようと心掛けている。
だから本来の意味とは少し違うのかもしれないけど自分らしく正しい方向に進めるならと思って考えている。
この『捨てて面を打つ』と言うのは思い切って体を投げ捨てるように打てということだけではなく、自分の感じてしまう、『恐さやもしかしたら返されるのではと思う不安な心を捨てて打つ』ということも入っていると思う。
それはなんで感じたかと言うと子供たちに捨てて面を打ちなさいと言うと剣先の触れ合ったところから少しでも入ると何でも良いから面を打つのを見て感じた。
この子の『捨てる』というとらえ方は何でも良いから遠くから打つということなんだと思って聞いてみたらやはり『先生が捨てて打てと言うから竹刀を捨てるように打ってる』と言った。
小学生の低学年の子供なら元気もあり立派なことだと思うけど、ある程度の経験を積んだ人はただ投げ捨てるのではなく、恐怖心や疑う心などの精神的な自分の弱い部分を捨てて打ちに行く。
だから何にもしないで遠くから打つんじゃなく、誰だって相手がいれば何をしてくるかもわからないし、この距離から打って当たるともわからない、それが邪魔な心になるならその自分の弱い心が強い心に変われるように気合いを漲らせ、竹刀の攻めとして相手を逆に弱い心にさせそれが自分の力となり勝ちとなった時自分を信じて全力で打ちぬく。
私はこの『捨てて面を打て』というのは闇雲に打てではなく、自分の心の弱さを捨てて面を打てと思っている。
何事も教わる気持ちでは上手くはならず、まずは自分が本気で何に一番興味を持つのかと言う事をしることこそ一番の近道と思っている。
良い先生に習っていても上手くならないという事を聞いた時、その人に『本当に全てのことに対して反論する心もなく、信頼しきって素直になっているのでしょうか?』と聞きたい。
本当に上達したいな『良いとこどり』的な心を捨てて、もしかして少々は間違っている所もあるのかもしれないけどそんなことよりこの人を信頼しているかどうかということが重要だと思う。
だから私は信頼する仲間を大切にするし、弟子や教えている人には心の底から信頼してくれたら望みをかなえるために一緒に歩いて行こうと思っている。
京都に八段を受験する仲間に私は『今のあなたはとってもいい感じだから自分を信じて頑張って下さい。そして勢いを増して、気負いをなくして面を打って下さい』と言った。
この言葉も日本語の面白いところで『いきおい』と『きおい』だ。
一文字の『い』があるだけで迷いのない良い言葉なのに、『い』がないと不安で揺れ動くように感じる。
彼からは『気負いを無くして、勢いを増すは永遠の課題ですね。これができたら八段になれますね』と返事をくれた。
この感覚の返事で私は彼は合格すると強く思った。
自分なりに自分の言葉として理解したんだと思ったからだ。
さすがだねとこっちが嬉しくなった。
日本語は色々な言い回しががあり、似ている言葉があるけど、全然違った意味ということもあるし、言葉の中に隠されている意味もいっぱいある。
私は小説も書いたことがあるけど、ある小説家の人が言った言葉がはっきりとわかるようになったらもっといい文章を書けるかもしれないと思った。
『行間に隠されている心を読み取る』
書いてある言葉の裏側ではなく、行間とは文章と文章の間、要するにそこには何の字もない空間。
これで何を・・・・・、そしてどんな心を・・・・、私にはわからないけどこれが余韻であったり、剣道の残心であったり、また形に現れない攻めであったりするのかもしれない。
目で見えることは『実』ではなく本当は『虚』なのかもしれない。
目で見えないものこそ本当の『実』なのかもしれない。
恐いのは相手や社会や学校や人間関係ではなく、自分の弱さだと私は思っている。
堂々としている人を見ると本当に素晴らしいと感じ、少しでも近づきたいと願っている。
私の周りにはそんな人がたくさんいるから私は幸せだと感じている。
ここで一句。
『気負い無く、勢い増して、剣の道』
または
『審査前、勢い増して、気負い無し』
剣道時代の川柳部門に投稿するかな?
日本語の解釈で外国の方が戸惑うのはある家に招かれご飯をごちそうになりそこの奥さんが『ご飯お代りいいですか?』と言うので『いいです』と言ったら、お代りをくれなかったと言う事を聞いた時、一瞬なにも不思議ではないけど外国人の人には「いいか?」と聞いているのだから欲しいのはYesだと思ってその言葉通り「いいです」と答えたのだと言う。
ここの最初はどうですかと聞いている「いい」で、答えの「いい」は結構ですと日本人は解釈してしまう。
日本人同士ならこんな説明はしなくても自然と理解している。
剣道もこの言葉のように主語と言うか明確なポイントをはっきり言わないので戸惑うこともある。
私も最近になって感じたことは、面打ちは『思い切って遠い間から捨てて打ちなさい』と言う言葉の意味。
剣道やっている人ならほとんどこの言葉を聞いたこともあるだろうし、子供たちを指導している人なら注意として言ったこともあると思う。
本当にそうだかどうかわからないけど私は今迄の教えてもらったことをただ覚えると言うより、自分らしく理解して頭で考え体で覚えようと心掛けている。
だから本来の意味とは少し違うのかもしれないけど自分らしく正しい方向に進めるならと思って考えている。
この『捨てて面を打つ』と言うのは思い切って体を投げ捨てるように打てということだけではなく、自分の感じてしまう、『恐さやもしかしたら返されるのではと思う不安な心を捨てて打つ』ということも入っていると思う。
それはなんで感じたかと言うと子供たちに捨てて面を打ちなさいと言うと剣先の触れ合ったところから少しでも入ると何でも良いから面を打つのを見て感じた。
この子の『捨てる』というとらえ方は何でも良いから遠くから打つということなんだと思って聞いてみたらやはり『先生が捨てて打てと言うから竹刀を捨てるように打ってる』と言った。
小学生の低学年の子供なら元気もあり立派なことだと思うけど、ある程度の経験を積んだ人はただ投げ捨てるのではなく、恐怖心や疑う心などの精神的な自分の弱い部分を捨てて打ちに行く。
だから何にもしないで遠くから打つんじゃなく、誰だって相手がいれば何をしてくるかもわからないし、この距離から打って当たるともわからない、それが邪魔な心になるならその自分の弱い心が強い心に変われるように気合いを漲らせ、竹刀の攻めとして相手を逆に弱い心にさせそれが自分の力となり勝ちとなった時自分を信じて全力で打ちぬく。
私はこの『捨てて面を打て』というのは闇雲に打てではなく、自分の心の弱さを捨てて面を打てと思っている。
何事も教わる気持ちでは上手くはならず、まずは自分が本気で何に一番興味を持つのかと言う事をしることこそ一番の近道と思っている。
良い先生に習っていても上手くならないという事を聞いた時、その人に『本当に全てのことに対して反論する心もなく、信頼しきって素直になっているのでしょうか?』と聞きたい。
本当に上達したいな『良いとこどり』的な心を捨てて、もしかして少々は間違っている所もあるのかもしれないけどそんなことよりこの人を信頼しているかどうかということが重要だと思う。
だから私は信頼する仲間を大切にするし、弟子や教えている人には心の底から信頼してくれたら望みをかなえるために一緒に歩いて行こうと思っている。
京都に八段を受験する仲間に私は『今のあなたはとってもいい感じだから自分を信じて頑張って下さい。そして勢いを増して、気負いをなくして面を打って下さい』と言った。
この言葉も日本語の面白いところで『いきおい』と『きおい』だ。
一文字の『い』があるだけで迷いのない良い言葉なのに、『い』がないと不安で揺れ動くように感じる。
彼からは『気負いを無くして、勢いを増すは永遠の課題ですね。これができたら八段になれますね』と返事をくれた。
この感覚の返事で私は彼は合格すると強く思った。
自分なりに自分の言葉として理解したんだと思ったからだ。
さすがだねとこっちが嬉しくなった。
日本語は色々な言い回しががあり、似ている言葉があるけど、全然違った意味ということもあるし、言葉の中に隠されている意味もいっぱいある。
私は小説も書いたことがあるけど、ある小説家の人が言った言葉がはっきりとわかるようになったらもっといい文章を書けるかもしれないと思った。
『行間に隠されている心を読み取る』
書いてある言葉の裏側ではなく、行間とは文章と文章の間、要するにそこには何の字もない空間。
これで何を・・・・・、そしてどんな心を・・・・、私にはわからないけどこれが余韻であったり、剣道の残心であったり、また形に現れない攻めであったりするのかもしれない。
目で見えることは『実』ではなく本当は『虚』なのかもしれない。
目で見えないものこそ本当の『実』なのかもしれない。
恐いのは相手や社会や学校や人間関係ではなく、自分の弱さだと私は思っている。
堂々としている人を見ると本当に素晴らしいと感じ、少しでも近づきたいと願っている。
私の周りにはそんな人がたくさんいるから私は幸せだと感じている。
ここで一句。
『気負い無く、勢い増して、剣の道』
または
『審査前、勢い増して、気負い無し』
剣道時代の川柳部門に投稿するかな?